多くの尊い命が失われ沖縄戦終えんの地となった沖縄県糸満市から、昭和19年、生きるために都農町に疎開してきた人たちがいる。山城光政さんもその一人。彼は貧しく苦しい戦時中にも、都農に来て良かったと話す。
「都農だから生活できた。都農の人たちは私たちを家族のように迎えてくれました」。
 当時、都農町の生活環境も厳しいものだったが、町民の温かい心と彼らの持ち続けた感謝の気持ちが強い絆をつくり、平成5年、とうとう都農町と糸満市は姉妹都市を締結した。来年迎える締結20周年を機に、糸満市民の、そして都農町民の「イチャリバチョーデー(一度出逢えば皆兄弟)」の心を考える。

太平洋戦争末期、沖縄糸満市から戦渦を逃れて都農町へ疎開が始まった

[新たな歴史の始まり 都農を離れて38年目の再会]

 多くの尊い命が失われ沖縄戦終えんの地となった沖縄県糸満市から、昭和19年、生きるために都農町に疎開してきた人たちがいる。山城光政さんもその一人。彼は貧しく苦しい戦時中にも、都農に来て良かったと話す。
「都農だから生活できた。都農の人たちは私たちを家族のように迎えてくれました」。
 当時、都農町の生活環境も厳しいものだったが、町民の温かい心と彼らの持ち続けた感謝の気持ちが強い絆をつくり、平成5年、とうとう都農町と糸満市は姉妹都市を締結した。来年迎える締結20周年を機に、糸満市民の、そして都農町民の「イチャリバチョーデー(一度出逢えば皆兄弟)」の心を考える。

太平洋戦争末期、沖縄糸満市から戦渦を逃れて都農町へ疎開が始まった

 太平洋戦争末期の昭和19年、米軍が沖縄に上陸する気運が高まりつつあった。国の政策で、子ども、老人や女性の疎開が進められるように。宮崎県では、3527世帯1万1683人を各市町村で公会堂 (公民館)や寺院などを利用して受け入れた。

 同年8月18日、糸満市大里地区を中心に、真栄里、真壁の3地区の疎開者96人を乗せた船団が那覇港を出港。1週間かけて鹿児島県に到着した。「蒸し風呂のような船倉、夜は敵の潜水艦におびえ、生き地獄のようだった」と手記に残っている。疎開船の一つ「対馬丸」は同月22日、米軍の魚雷を受けて沈没。子ども789人を含む1484人が犠牲になるという悲劇も起こっている。
 疎開者たちが到着する日、都農駅では、多くの町民が出迎えたという。疎開者たちは生活の場を、三日月原、松原、木戸平、藤見新田、篠別府、朝草の公会堂などに割り振られた。さらに9月25日、与那城村から約30人が到着し、長野、内野々地区でも共同生活が始まった戦時中はどこの家庭も食料に困っていた。疎間してきた母親たちは農家の手伝いをし、日雇いの代償として手間賃や農産物をもらったり、戦後は行商をしたりして必死で生活し ていたという。

 昭和21年8月から11月にかけて、疎開者は全員無事に沖縄に帰ってい った。別れの日、都農駅には同級生たちが見送りに来ていた。疎開者たちは汽車から降りたくなるほど後ろ髪を引かれる思いだったという。
 昭和20年3月26日に始まった沖縄戦は、住民を巻き込んだ国内最大規模の地上戦となり、終戦までに20万人以上の命が奪われた。約90日間に わたる激しい砲爆撃により変わり果てた沖縄の大地には無数の死体が横たわっていたという。糸満市民の戦没者は、8287人。人口約4割弱の人が尊い命を奪われた。


新たな歴史の始まり 都農を離れて38年目の再会

 疎開者たちが都農を離れた日から38年の月日を経た昭和59年、「やっと生活も安定してきた。お世話になった都農町にきちんとお礼がたい」と、山城光政さん(78歳 糸満市)を会長に疎開体験者たちで「都農を偲ぶ会」を結成。メンバー全員(29人)で都農町を訪れ、感動の再会を果たした。

 「都農町の昔と変わらぬ温かい心に触れて感動を新たにした。長年の胸のつかえが取れるのを感じた」と山城さんは目を細めた疎開者たちの都農町への再訪をきっかけに、再会を果たした人たちの交流が始まった。その輪は徐々に広がり、都農町と糸満市での人的・文的交流が活発に行われるように。市町の親交は一層深まり、より強い絆で結ばれるようになった。

 その後、糸満市議員全員が都農町へ行政票を実施、都農町議会(河野通継議長)などに現地説明を受け、具体的な姉妹都市提携についての協議が始まった。
 平成5年9月17日、糸満市と都農町の両議会で満場一致で承認され、12月1日糸満市で、同5日都農町で調印披露式を開催、姉妹都市提携が完成した。
 妹都市締結後「宮崎日日新聞社の取材に対して上原官成元市長は「戦時中の縁で結ばれた姉妹関係を、戦争で失ったものの何百倍もの宝として、大切にしていきたいと思っています」と答えた。陸軍軍人の経験を持つ土工千志夫元町長「糸満市民は、戦褐で大変な犠牲を経験しただけに、平和の尊さについて切実に感じている。平和は一人一人の努力でつくるのだということ、平和の大切さを共にかみしめたい」と話している。


疎開を経験した山城さんのお話

■家族の半分が疎開で都農へ
 私は9人兄弟。そのうち2人は小さいときに亡くなりました。疎開に行くことが決まったとき、「疎間先も大変だろうからみんな連れていくと生活できない」と、兄弟7人中、兄、姉、自分(当時10歳)、弟、乳飲み子の妹の5人が母と一緒に疎開しました。
 兄は、随行で一緒に都農に行ったのですが、召集令状が届いて沖縄に引き戻されました。篠別府の公会堂で始まった共同生活。昔の人は皆、物も無く大変だ ったと思います。食糧を得るため、母親たちが農家で毎日手伝いをして生活していました。鋼や食器の行商をすることも。米や基手あめなどを人口の多い別府や大阪に汽車で売りに行く人もいました。

■都農の人の親切が生活を楽しく
 よその疎開先は苦しかったらしいですが、都農は農家が多く、米や野菜がとりあえずはあったようで す。都農の皆さんがとても親切にしてくれ、とにかくひもじい思いをしたことはなかったのです。隣の方に風呂を貸してもらったり、お餅をもらったりと大変お世話になり ました。学校生活にも慣れることができたし、トロッコ線路に沿って学校に通ったこと、名貫川での魚釣りや川遊びなど懐かしく思い出されます。特に都農神社での相撲大会で 5人抜きをしたことはとてもうれしかったです。疎開した全員が一人も欠けることなく無事に帰郷できたのは、疎開者を受け入れて公会堂まで無慣提供してくれた地区住民のおかげだと心から感謝しています。多くの沖縄県人の疎開者を受け入れてくれた宮崎県の互助の精神は、善行として歴史的にも語り継いでいかねばと思います。

■戦後、「ふるさと」へ再び
 疎開から戻ると、沖縄は一面真っ白でした。沖縄の土は下が石灰岩。大砲のすさまじさで土や木が全部吹き飛ばされて、根っこの石が露出していて真っ白に見えたのです。 沖縄に残った父や兄は戦死していました。
 「都農を偲ぶ会」を結成したのは 昭和59年。都農での疎開経験者たちが集まったときに、「都農にはお 話になって命拾いをした。ありがたい」という話になったのが発端。「亡くなる前に組織してお礼に行かねば」となり、都農を訪れました。その日は、それぞれが疎開当時に過ごした地区の公民館で懐かしい友達と酒を酌み交わしました。元気な顔を見れてうれしかったです。都農町は私にとって、命を助けてもらった場所。今でも大切なふるさとです。


夏祭りやエイサー、ワイン等広がる交流の輪

 都農国民学校で同級生だった黒木メイさん、上原宣成さんたちの学年は、同窓会を2年に一度開くなど活発な交流を続けていた。平成4年には、糸満市でも開催している。こうしてそれぞれにつながりを持っていた両市町は姉妹都市締結をきっかけ に、行政面でもさまざまな分野で交流が始まった。

 平成6年から始まった職員交流事業は15年度までの10年間に両市町で22人が半年から1年の期間で派遣された。小学校高学年が相互訪問して交流を深める「糸満市・都農町少年交流事業」に参加した子どもたちは両市町で約300人。現在も交流の輸は広がり続けている。

 平成10年には糸満市文化協会が都農町文化祭に参加し、沖縄舞踊を披露した。翌11年には本町文化協会が糸満市文化祭に参加。しゃくなげコーラス(河野員子会長)が沖縄の歌を歌い、大好評だったという。両協会のメンバーたちは数日を一緒に過ごし、お互いの絆をさらに深めた。13年には都農町婦人団体が糸満大綱引きに参加。糸満市大里青年会は都農町夏祭りに2回参加しエイサーを披露している。その他にも、ワイン技術指導交流として、糸満観光農園の大城太志さんが都農町へワインの仕込み研修に。糸満市主催の技術講習会では都農町の三輪晋さんが土づくりの講師を務めた。都農小学校では、現在でも運動会や夏祭りでエイサーが引き継がれている。


期待がかかる経済交流

 本年9月、糸満市から経済交流団として、花城宗順糸満市経済観光部長をはじめ、市商工会、農協・漁協関係者など8人が来町。10月21日に開催予定の都農ワイン祭りと、11月17 日から糸満市で開催される全国豊かな海づくり大会にお互いのまちの物 産販売と観光ブースを設ける予定で協議した。今後は、経済交流にも期待がかけられている。


そして未来へ 〜都農町の小学生が糸満市を訪問〜

■戦跡地で感じた「あの夏」
 平和祈念資料館、平和の礎、慰霊の塔が多数建立されている糸満市南部一帯は、国内唯一の戦跡国定公園に指定されている。戦跡地を共に訪れた糸満と都農の子どもたちは、平和祈念資料館で、語り部として学校などへ訪問を続けている元中学校校長久保田暁さんによる講話を聴いた。母親がまだ3力月だった久保田さんを抱き、兄を背中におぶって逃げながら生活した体験談を親子で語り続けている。

「今皆さんがいるこの場所に北から走って逃げてきた」。

当時2歳だった兄は、母におぶられたまま爆弾の破片が刺さって亡くなった。
「それでも戦争は続く。兄をそこにそっとおいてまた逃げた」

■夢や希望の持てる世界を
 必死で逃げ、生活する様子や、あちこちで集団自決に追い込まれていた現実、なぜ戦争はいけないのかなどを説得力のある言葉で力強く語る久保田さんに、子どもたちの目はくぎ付けだった。

「夜になったら、食べ物を探しに行く。焼け焦げた米を集めて食べたり、米兵が逃げた後の食料を食べたり…」。

講話中、子どもたちは誰一人言葉を発しなかった。ただただ真剣に耳を傾け、あの悲しい夏を想像した。
「戦争をおこすのは人。平和な世をつくるのも人。大切なものが守られ、夢や希望の持てる世をみんなの手でつくろう。そのために、ずっと平和でいられるよう交流を」。

久保田さんは子どもたちに優しく言葉を掛けた。

■もう一つの家族との絆
 糸満市・都農町少年交流事業は、子どもたちが相互訪問しながら、両市町の文化や歴史を学び、交流を深める目的で行われている。子どもたちは戦跡地で歴史を学ぶほか、糸満の子どもたちと一緒にシーサー作りを体験したり、美々ビーチで海水浴 やバーベキューなどを楽しんだりしながら徐々に仲良くなっていく。「ホームステイの人たちが温かく迎えてくれたから安心して楽しく過ごせた」。糸満市役所でのお別れ会で子どもたちは、別れを惜しみながらも再会を誓い、笑顔で握手を交わし た。 都農町に帰る最終日、那覇空港にはそれぞれの「都農町から来た息子・娘」を涙ながらに見送る糸満の家族の姿があった。糸満団員が都農町を訪間した昨年と都農団員が糸満市を訪間した本年の2年間の交流を通して、子どもたちの心には糸満の兄弟・姉妹・家族への思いが刻まれた。


未来をつくるイチャリバチョーデーの心

 ひかりとみどりといのりのまち・糸満市には、「いのりのまちづくり」という理念があ る。たくさんの人たちの犠牲があって、それを伝え続けてきた人たちの努力があったからこそ、今の生活はあるということを私たちは思い出す必要がある。

 平和の大切さを語り続ける久保田さんはこう話す。「本当は、敵は憎い。だが、米兵だって家族がいる。人を憎まず、イチャリバチョーデー。それが沖縄の人」。その言葉どおり、海を望む丘に建つ「平和の礎」には、国籍の別なく戦争で亡くなったすべての人々がまつられている。

 沖縄の方言「イチャリパ(一度出逢えば)チョーデー(皆兄弟)」。

実は後に続く言葉がある。
「ヌーヒダティヌアガ(何の隔たりがあろうか)」だ。

 戦時中、物が無い時代に疎開者たちを温かく受け入れた都農町民の優しさは、まさに隔たりのないイチャリバチョーデーの心。そんな都農町民の心が、糸満市の人たちに響き、現在の両市町の交流へとつながっているのだ。

 共にかけがえのない時間を過ごした少年交流団の子どもたちが、再会を誓って固い握手を交わした。この子どもたちの小さな手には、永遠に忘れてはならない、糸満市の深い悲しみの歴史と、未来をつくる希望が詰まっている。彼らの握手が交わされる限り、都農と糸満の人の絆は固く結ばれ、希望あふれる平和な未来へとつなぐことができるだろう。イチャリバチョーデーの心を大切に、共に歩んでいこう。これまでのように。これからもずっと。


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