新地学さんは、18歳でコロンビアへ渡り、数々の苦労を乗り越えながら農業指導や販売ルートを開拓するなど尽力。この功績がたたえられ旭日双光章を受章しました。川南からコロンビアへ渡った後の57年間を振り返ってお話を伺いました。

掲示板に貼られた案内がきっかけに

[開拓者精神をもって、いざコロンビアへ]

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掲示板に貼られた案内がきっかけに

 コロンビアへ移住し57年、本町出身の新地学さんが11年ぶりに帰国し、10月16日(水)、町長を表敬訪問しました。

 高鍋農業高校3年生の時、育った土地の農業に飽き飽きしていた学さんは、学校の掲示板の「外務省派遣農業実習生募集」という案内を見て試験を受けました。結果、学さんは全国で30人選ばれたうちの1人となり、合格者たちは南米各地に振り分けられることになりました。


開拓者精神をもって、いざコロンビアへ

 派遣農業実習生は、当時の「花形」のようなもので、両親には「行ってこい。」と快く送り出されたそうです。兄である満穂さんは、「私たちは開拓者だったから、くわで荒れ地を耕して、大変な苦労をして、『なにくそ』という精神を培っていたんですよ。
 このときの彼(学さん)からは『コロンビアで成功するぞ!』という意志がみなぎっていました。』と話します。

 昭和32年、単身コロンビアへ渡った18歳の学さんは、パルミラ市の村にある農場に派遣されました。そこは、同じく日本からの移住者である田中さんが営む農場でした。

 学さんが最初にしたことは、トウモロコシづくりの無駄を徹底的になくし、収穫を上げることでした。苦労はしたけれど、田中さんには信頼されるようになったといいます。


コロンビアへ永住を決意、現地での尽力

 学さんは、様々なものを栽培して生活する中で最初の8年間は外務省の管轄下でしたが、その後は永住することを決め、昭和41年、田中さんの娘であるオフェリアさんと結婚しました。その後3人の男の子に恵まれ、長男が6歳の時、学校教育の都合でコロンビア第3の都市カリ市へ移住しました。

 平成2年からは、コロンビア日系人協会の会長を12年間務めました。この間、零細農家を指導するプロジェクトを立ち上げ、耕作だけでなく、販売ルートを作ることや包装の仕方も教えました。

 会長職を退いた後も引継ぎに追われ、これまでは大体3年に一度はしていた帰国もままならなくなってしまったそうです。


数々の苦労を乗り越えて

 平成20年、このような功績がたたえられ、学さんは旭日双光章の栄誉に浴しました。満穂さんは、この時を振り返り、「家族にとっても嬉しいことで、ありがたいことですよ。よく頑張ったなあ、と思います。奥様の支えもあったのではないでしょうかね。」と話します。


故郷を思う

 今回の帰国は、11年ぶりに実現しました。

 現在も農業を営んで生活する傍ら、コロンビア日系人協会の顧問として活躍している学さんは、「ふるさとが恋しくなって。」と話し、帰郷してから、県内の観光地や町内の懐かしい地を巡ったり、農業大学や母校の高鍋農業高校を訪れたりしたそうです。「農業大学に行ったときは、職員の人が2時間ほど大学の説明をしてくれたんですよ。」と顔をほころばせ、川南の風景については、「変わりましたよ。昔は何もなかったのに、人家も増えて。」と感慨深げな表情を見せていました。

 「移民の中で一番かわいそうなのは、母国を見ずに亡くなった人たちですよ。」学さんのこの言葉に、異国の地へ移民してもなお、故郷を大切に思う気持ちが表れていました。


 


 


 


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