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 激動する戦国時代において、身も心も神に捧げ、清らかな信念に生きた司祭、伊東満所(マンショ)。わずか13 歳にして天正遣欧少年使節の正使としてローマへと趣き、法王に謁見するという偉業を成し遂げた少年の情熱。その原点は都於郡にありました。


 マンショは、1569 (永禄12)年頃、伊東祐青の子どもとして誕生しました。しかし、約8年後の1577 (天正5)年、伊東氏は島津氏との戦いに敗れ、親戚の大友宗麟を頼って豊後(大分)に逃れて行きました。その中に幼いマンショ(幼名 虎千代麿) の姿がありました。豊後国の府内においてマンショは、宣教師ペドロ・ラモンと出会いました。この出会いが10歳の少年の生涯を決定づける運命的な出来事となりました。


 それから3年後、1582 ( 天正10)年、長崎の港を出航する船の甲板に4人の少年の姿がありました。伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアンです。彼らが運命を共にした8年半の長い旅の間には、日本人の彼らには想像もできない苦難や、素晴らしい出来事を経験し、彼らに勇気と感動を与えました。そして、彼らは、ポルトガル・スペイン両国王のフェリーペ2世、ローマ法王のグレゴリオ13 世に謁見し、日本人としての品位ある態度を示し、使節としての使命を立派に果たしたのです。


 行く先々で大歓迎を受け、また西欧文化に触れるにつけ、マンショは感激とともに言い知れぬ使命感を感じました。それは帰国後、関白秀吉から士官の誘いがあった際、神に仕える固い意思を貫き、また、「バテレン追放令」発令下の日本で布教に努めていたことからもわかります。地道な布教活動に生涯を捧げたマンショは、1612 (慶長17)年11月13日、長崎のコレジヨの中にある聖パウロ学院の病室で、43歳の短い生涯を閉じました。


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わずか13歳にしてローマ法王に謁見した少年の原点とは? 写真

miyazaki ebooks編集部

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