現在の宮崎ブーゲンビリア空港は、かつて特攻隊が飛び立っていった海軍赤江飛行場でした。現地を訪れた読者リポーターの声も交えながら、その歴史を見つめました。
[もっと多くの宮崎の人に宮崎特攻基地慰霊碑を知ってほしい]
現在の宮崎ブーゲンビリア空港は、かつて特攻隊が飛び立っていった海軍赤江飛行場でした。現地を訪れた読者リポーターの声も交えながら、その歴史を見つめました。
宮崎特攻基地慰霊碑
JR宮崎空港線の高架をくぐった先にあります。旧赤江飛行場から出撃して亡くなった人、宮崎県出身者で旧赤江飛行場以外の基地から発進した人をまつった慰霊碑です。
もっと多くの宮崎の人に宮崎特攻基地慰霊碑を知ってほしい
丸山 正行さん(88歳)
この場所に慰霊碑を作ろうと動き始めたのは昭和57年のことで、その翌年の昭和58年から慰霊祭を行ってきました。
戦時中の飛行場が今も使われているのは、全国でも鹿屋基地と宮崎空港だけです。数年前からは赤江小学校の子どもたちが社会科学習で現場に来てくれるようになりました。
海軍赤江飛行場の歴史をもっと多くの宮崎の人に知っていただきたいと思っています。
[戦争を記憶するスポット]いとし子の供養碑
宮崎大学教育文化学部附属小学校では、昭和20年5月11日の空襲で12人の児童が亡くなりました。その供養のためにつくられたのが「いとし子の供養碑」です。
その日は授業の途中で空襲警報が鳴り、子どもたちは全員校庭に集合して避難を開始。江平池(今の中津瀬町付近)に差し掛かったところで空襲にあったそうです。同校では中学年用の教材「ソテツの話」として、この時の様子をまとめていますので、一部を引用して紹介します。
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「ふせろ。」という先生のどなるような声。女子の班は江平池の方にふせた。男子の班は、反対の田んぼの方にとびこんだ。先生の声と
同時に、ざざざっ、という音とどかん、という音がして地面が大きくゆれたんじゃ。そして、土がばらばら、って落ちてきたんじゃ。
[中略]
いとし子が永久に安らかでありますように
供養碑への誓い
平和への道しるべ
平和への道 いとし子の道
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同校では、戦争の犠牲となった先輩達の供養をしながら、平和の大切さや命の尊さを感じる取り組みをしています。
特攻隊として、8月15日が出撃予定日でした
庭月野(にわつきの)英樹さん(89歳)
私はかつて、海軍の一員として沖縄で任務に就いていました。11か月の滞在中、潜水艦への爆撃や輸送船団の護衛をしていたのですが、戦局が次第に悪化し、台湾で特攻隊に編成されました。私の番が近づいた時、木更津の新鋭機「彩雲」特攻隊に転勤、黒光りする800㎏の爆弾をなでながら「これが俺の棺おけか」とつぶやいたものです。
出撃予定日は8月15日でしたが、待機命令が出て九死に一生を得ました。解散命令が出たのは8月23日で、四国でまだ戦う準備をしているさなかでしたね。恋も報われず、結婚もできず、子孫も残せずに亡くなっていった多くの若者たちが70年前にいたという事実を、ぜひ皆さんに知っていただきたいです。
市広報みやざき2015年7月号で
下記のブックから『戦後70年企画 〜あの夏を忘れない〜』をもっとご覧になれます
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