西都市には数多くの遺跡がありますが、日向国において西都市は国の中心を担う拠点があったことが調査により明らかになりました。

国分寺【こくぶんじ】

[日向国府跡【ひゅうがこくふあと】]

西西調

国分寺【こくぶんじ】

 奈良時代、聖武天皇の天平13年(741年)3月、国毎に 国分寺建立の語(みことのり) が発せられました。続日本紀(しょくにほんぎ)」によると、それより15年後の天平勝宝8年(756年)には日向国分寺は造られていました。

 当時この寺域内には、金堂・講堂・塔・僧坊・食堂(じきどう)などが建立されていましたが、 現在は数個の礎石(そせき)が遺存しているだけです。

 この国分寺については、昭和23年(1948年)4月に日向考古調査団、また昭和6年(1961年)12月には宮崎県教育委員会によってそれぞれ発掘調査が行われ、寺域の規模は、ほぼ2町四方であることが確認できました。また、現在、国分寺前を東西に走っている道路も、当時の寺行内中央路線の名残と推定されています。なお、木喰五智館には、江戸時代・寛政年間に、国分寺に滞在中の木喰上人(もくじきしょうにん)によって作像された五智如来像(ごちにょらいぞう)が安置されています。


日向国府跡【ひゅうがこくふあと】

 国府とは、奈良・平安時代の国(現在の県に相当する)ごと に設置された行政機関などが集まる中心的地域です。国府では中央政府から派遣された国司が政務を執り、日向国を統括していたと考えられます。

 日向国府の所在地は近年まで不明でしたが、平成8年から平成12年にかけて実施された宮崎県教育委員会の調査により、中心的施設と推測される建物跡が部分的に確認され、その中心である国庁が西都市寺崎地区に所在することが判明しました。その後、平成17年7月14日に国史跡として指定され、平成24年9月19日に追加指定を受けました。面積は合計約2haに及びます。

 平成23年度から、国庁の建物配置や規模を確認する調査が続けられ解明が進んでいます。古代日向における政治・文化の中心を担った、西都市の歴史を示す重要な遺跡です。


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