歌人 若山牧水(1885-1928)
自然を愛し、酒を愛した歌人・若山牧水は、その生涯において9,000首余の秀歌を詠んで、います。牧水の短歌は「あくがれ」の文学とも言われています。牧水は、旅の中で出合う見知らぬ人や自然にあくがれ、その出合いの中で歌を詠む自然派の歌人でした。
こうした牧水の自然観や生き方などは、幼少期の家庭環境や、牧水が遊んだ坪谷の山や川に大きく影響されているといわれます。また初めて見た「美々津」の海の記憶など、日向の自然は幼少の牧水に未知の世界へのあこがれを抱かせるには充分だった事でしょう。
牧水は、延岡中学時代に文芸雑誌などに短歌を投稿するなど、詩歌の創作を始め、早稲田大学進学のため上京した際には、北原白秋等と交流を深める等、本格的に文学の道を歩みはじめます。早稲田大学3年の夏、中園地方を旅して帰郷の途中、岡山県哲西町で詠んだ「幾山河~」の歌は牧水の代表歌の1つとして愛請されています。
太田喜志子と結婚後間もなく、父危篤の報を受けた牧水は、妻を残したまま帰郷。母や姉からは坪谷に残るよう強くせまられる一方、自らの文学への思い断ちがたく、苦悩の日々を過ごしました。父の死後ようやく母の諾しを得た牧水は、老いた母に心残しつつも上京、43年の生涯を文学に捧げました。
没後80年を迎える今日、牧水を慕う心は益々高まっています。

牧水のふるさと
牧水のルーツを探る~幼少期

[牧水生家]

歌人 若山牧水(1885-1928)
自然を愛し、酒を愛した歌人・若山牧水は、その生涯において9,000首余の秀歌を詠んで、います。牧水の短歌は「あくがれ」の文学とも言われています。牧水は、旅の中で出合う見知らぬ人や自然にあくがれ、その出合いの中で歌を詠む自然派の歌人でした。
こうした牧水の自然観や生き方などは、幼少期の家庭環境や、牧水が遊んだ坪谷の山や川に大きく影響されているといわれます。また初めて見た「美々津」の海の記憶など、日向の自然は幼少の牧水に未知の世界へのあこがれを抱かせるには充分だった事でしょう。
牧水は、延岡中学時代に文芸雑誌などに短歌を投稿するなど、詩歌の創作を始め、早稲田大学進学のため上京した際には、北原白秋等と交流を深める等、本格的に文学の道を歩みはじめます。早稲田大学3年の夏、中園地方を旅して帰郷の途中、岡山県哲西町で詠んだ「幾山河~」の歌は牧水の代表歌の1つとして愛請されています。
太田喜志子と結婚後間もなく、父危篤の報を受けた牧水は、妻を残したまま帰郷。母や姉からは坪谷に残るよう強くせまられる一方、自らの文学への思い断ちがたく、苦悩の日々を過ごしました。父の死後ようやく母の諾しを得た牧水は、老いた母に心残しつつも上京、43年の生涯を文学に捧げました。
没後80年を迎える今日、牧水を慕う心は益々高まっています。

牧水のふるさと
牧水のルーツを探る~幼少期

若山牧水は、明治18年B月24日宮崎県日同市東郷町坪谷で生まれました。3人の姉に次いで初の男子誕生に喜ぶ若山家の様子を物語る巨大な節句ノボリが、今も残されています。

牧水の本名は「繁」といいます。名前をつけるとき、祖父は「玄虎」にしようと決めていました。ところが姉たちは「変な名前だからイヤ」といって、祖父が診察で出かけている聞に、役場に行って「繁でお願いします」と書類を出してしまいました。繁というのは、当時姉たちが読んでいた物語に出てくる、主人公の名前からきています。

牧水は坪谷尋常小学校(今の坪谷小学校)に入学しました。当時の小学校は4年生までしかありませんでしたが、よく勉強したそうです。読書が大好きでしたが、足も速くて運動も得意でした。学校から帰ってきてか5は、川で泳いだり、山に出かけて、キノコやヤマイモを採るなど、自然の中で元気に遊びました。このことは、牧水にとって大切な思い出になりました。
牧水が自然を愛する所以でもあります。
牧水のまじめな性格を表す、おもしろいエピソードがあります。ある日、友達の女の子が学校で禁止されている指輪を持ってきて、自慢していました。これを見た牧水は、指輪を取り上げ、二度と持ってとれないように、石でたたいて壊してしまいました。


牧水生家

坪谷川の清流のほとりにひっそりとたたずむ牧水生家。牧水の祖父によって(1845)建てられたもので、牧水生誕当時とほぼ同じ形で保存されています。


母・マキと父・立蔵(りゅうぞう)

祖父の跡を継いだ父は、医者としての技量も高く、地域でも頼りにされる人でした。また牧水を鮎つりに誘ったり、文学にあこがれる牧水を静かに見守る心優しい父でした。母は武家の娘で、自分の考えをしっかり持っており、山に出かけて山菜などをとることが大好きでした。牧水はよく母といっしょに山に出かけ、自然の美しさや「きびしさ」を教えてもらいました。

父と母、双方の深い愛を受けて育った牧水は、感受性を豊かに育み、歌人としてその感性を大いに発揮しています。


牧水、文学の道へ
牧水のルーツを探る青年期

延岡時代
■延岡高等小学校(明治29年4月~同32年3月)
■県立延岡中学校(明治32年4月~動37年3月) 坪谷尋常小学校を卒業した牧水は、母の親戚の住む延岡市の学校へ進学しました。文学が好きな先生の影響を受け、短歌を作り、大好きな母の名前と坪谷川の水を組み合わせた「牧水」という雅号を使い始めます。雅号というのは、短歌を雑誌などに発表するときに使うペンネームのことです。
友達と雑誌を作ったり、新聞に短歌を投稿するなど、活発な文学活動を行います。延岡は、青春時代の牧水が文学へのあこがれを育んだ街です。
家族は医者になってほしいと願っていましたが、牧水は文学の世界に進みたいと思っていました。牧水はどちらの道に進めばよいのかとても悩んでいました。


初めて作った短歌

「梅の花今や咲くらむ我庵の~」と歌われているこの短歌には、牧水の多感な中学生時代を思わせるような初々しさがあります。


大学時代
■早稲田大学(明治37年4月~同41年7月)

先生の助言もあって、牧水は早稲田大学に入学、文学の勉強をすることにしました。
同級生には北原白秋がおり、一緒に生活したり、短歌の研究をしました。友達の中林蘇水と北原白秋(当時の雅号は射水)と牧水の3人は、「早稲田の三水」と呼ばれていました。
大学3年の夏、牧水はふるさとに帰ります。中国地方を旅し、岡山県と広島県の県境にある町、哲西町から、友人に宛てたハガキに、牧水の代表歌「幾山河~」が記されていました。旅の歌人としての牧水は、この時、誕生したと言ってもいいでしょう。


園田小枝子

同じころ、牧水は初恋の女性・園田小枝子と出逢います。そして、恋の歌をたくさん作りました。牧水は、小枝子に結婚を申し込みますが、なかなか返事をくれません。実は小枝子は既に結婚しており、小枝子はそのことを内緒にしていたのです。牧水は「こんなに好きなのにどうしてだろう」と悩みますが、小枝子との出会いは新しい歌を作るきっかけになりました。


文学の道へ

大学卒業が近づくと、牧水は将来の仕事のことで悩みます。そして、文学の世界に進むことを決心するのでした。
卒業と同時に、第一歌集「海の声」を出版、新たな人生を出発します。しかし、新人の牧水が出した歌集は、期待通りには売れず、牧水はがっかりします。さらには小枝子との恋愛問題がこじれて、すっかり疲れてしまった牧水は、信州の友達の所へ出かけていきます。静かな自然の風景を眺めていると、牧水は少しずつ元気が出てくることを感じました。そして短歌をたくさん作りました。「こんな風に旅をして、自然の中で歌を作ることが僕の役目だ」牧水は、自然の美しさや「きびしさ」を短歌や紀行文にして、たくさんの人に知ってもらおうと思いました。


友人の死

牧水と同じ時代の歌人として、石川啄木がいます。歌集「一握の砂」などが有名です。牧水は啄木の才能を高く評価していて、牧水が作っていた雑誌に紹介していました。しかし、啄木は病気になり、わずか二十六歳の若さで亡くなります。牧水は、友人として、その最期を見届けました。


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出合いの中で歌を詠む「若山牧水」のルーツを探ってみた-幼少期- 写真

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